長野地方裁判所 昭和40年(タ)6号 判決 1968年5月15日
原告 川口佐知子
原告補助参加人 川井佐紀子
右両名訴訟代理人弁護士 中村勝治
被告 長野地方検察庁検察官検事 市川道雄
被告補助参加人 山本一太郎
右訴訟代理人弁護士 橋本乾三
右訴訟復代理人弁護士 竹上英夫
主文
原告が本籍東京都○○区○○町○○番地亡山本太郎の子であることを認知する。
訴訟費用は原告および原告補助参加人と被告との間に生じた分は国庫の負担とし、被告補助参加人との間に生じた分は被告補助参加人の負担とする。
事実
一、原告は主文第一項同旨および訴訟費用は国庫の負担とする。との判決を求め、原告および原告補助参加人は、その請求の原因として、次のとおり述べた。
≪以下事実省略≫
理由
第一、まず被告補助参加人の本案前の申立について判断する。
1、原告が原告補助参加人と双生子であり、かつ被告補助参加人主張のような戸籍上同様の親子関係の身分を有しているからといって、認知の訴は必要的に共同訴訟として提起しなければならないものではないから、この点に関する主張は理由がない。
2、また、本件認知訴訟を提起するためには、原告補助参加人と共同して小野シズとの養子縁組無効および大原一平、同たみとの親子関係不存在確認の確定判決をうけ、戸籍の訂正を経た上でしなければならないというものではないと解すべきであるから、この点に関する主張もまた理由がない。
第二、そこで、本案について判断する。
一、≪証拠省略≫によれば、原告らは大原一平、同たみの原告は六女、原告補助参加人は五女としていずれも昭和七年七月三〇日○○市大字○○○番地において出生し、昭和八年三月二二日東京市○○○区○○町四丁目一〇番地小野シズ(明治三〇年一月五日生)と養子縁組をし、小野伝一戸籍に入籍したこと、本籍東京都○○区○○町○○番地亡山本太郎は明治三九年六月二日山本専一、同カツの五男として出生し、昭和一八年四月二七日大宮光と婚姻届出、昭和三九年一一月二一日死亡したが、先妻信との間に昭和一二年七月二九日長男である被告補助参加人(昭和三二年八月二四日山本光の養子となる。)をもうけ、妻光との間に昭和二二年一月一二日長男小二郎をもうけたことの戸籍上の記載があることが認められる。
二、≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。
小野シズは大正一二、三年頃家政婦として山本家に住込勤務し、専ら当時結核性股関節炎で入院加療中であった太郎の看護に従事し、退院後は鎌倉にあった別荘で療養生活を送る太郎の身の廻りの世話を続けた。二、三年後快方に向って後は、太郎が独学で第一高等学校を受験するのに協力し(同校に入学するまでには受験勉強を始めてからは約三年かかった)、入学してからは東京本郷西片町に借家して二人で起居し、その頃から性交関係をもつようになった。そして、三年間の高校生活を経て東京帝国大学に入学して太郎が一年の時、シズは太郎の母カツとの折合いが悪くなったので山本家を辞することになったが、その時に姙娠二ヵ月位の身となっていた。太郎は、シズが原告らを出産した後は生活費や品物を送り、また原告らを子供と呼び、憐んだり健やかな成長を願う手紙をシズに送ったりしていた。他方、シズが原告らを懐胎した頃に、他の男性と情交関係をもったことがあることは、これを認める証拠は存しない。そうとすれば、原告らは、太郎とシズとの間に生れた子であると認めなければならない。
三、被告補助参加人は、原告の本件認知請求は権利の濫用であると主張するので、この点につき判断する。
1、≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実が認められる。
太郎は、原告らが自分の子であることを認め、父親としての情愛を示しえない境遇にあることを詑び、原告らが成長した時に両親の正常でない関係を知って清らかさを損いはしないかと恐れる気持をシズに書き送っていたことは前記のとおりであるが、シズに生活費を送り、特に昭和一一年三月には弁護士Yを介して金一万円を三井信託会社に信託し、毎月六〇円宛を生活として送金してきた(右金額は、利息を計算しないでも約一四年間の生活費に相当する。)。昭和二四、五年頃、太郎は中原正一にシズとの間に双生子があることを打ち明け、原告らが成長するにしたがって父親代りになって相談相手になり精神的に指導してほしいと依頼した。そして、せめて大学教育だけは受けさせてやりたいという気持から原告らを激励して勉学させ、昭和二六年には原告が○○○大学英文科に、昭和二七年には原告補助参加人が○○○○大学英米文学科に入学することができた。
太郎は、婚外の子があるのを妻に隠していることを悩んでいたが、昭和二六年には意を決して原告らを自己の許に引取るべく、右中原およびY弁護士を松本に居住していたシズの許に派してその旨申し出たがシズの反対にあい、原告ら両名がシズに代って中原らに断りに来たこともあった。
シズと原告らは大学入学とともに東京に出て住むようになったが、主として中原家に原告らが出入りして生活費、学費を中原を通じて受取るほか、時には太郎も同家で原告らと落逢って食事を共にしたこともあり、またホテルやレストランなどでも親子三人が逢ったこともあった。なお、時には原告らに洋服生地を送り届けたり、オーバーを買ってやったこともあった。
この面会の際には、太郎は原告らを佐知子、佐紀子と呼びつけにし、原告らは太郎を父と呼んでいた。そして、太郎は原告らに対し山本家の先祖や兄弟の話をし、家庭の父親として原告らと一緒に暮せないことを詑びると同時に、政治家の娘として誇りをもち自尊心を失うなと励ましていた。原告らにも、太郎が苦しみながら原告らと逢っているという印象を与えた。
昭和二八年一〇月(原告が大学三年、原告補助参加人が大学二年)太郎は妻に打ち明け認知の意向を表明して反対され、金七〇万円をシズに交付して以後原告らとの往来は一時途絶え、原告らは右金員の内から生活費と学費を支弁してきたが、その後右の金を使い果しまたシズが病気になったこともあって、原告らの申し出により太郎から金五万円が支給されたのを契機として再び月々二万五〇〇〇円程度の金を中原を通じて供給をうけるようになり、これは太郎が死亡する昭和三七年一一月の一、二か月前まで続いた。
この間、原告補助参加人は昭和三一年○○○○大学を卒業後学究を重ね、昭和三五年五月川井三郎と結婚し、原告も昭和三〇年○○○大学を卒業し、教職に就いた後昭和三四年九月川口四郎と結婚したが、原告補助参加人の結婚式の際には中原が父親代りというつもりで参列し、太郎は祝儀を贈り、また原告が結婚するについても太郎は祝儀を贈ったほか、当時○○警察署警察官であった川口を○○市役所に転勤させるように中原を通じて○○市長に働きかけたこともあった。
2、右認定の事実によれば、太郎は戸籍上は原告らの父ではなかったが、原告らに対して父であることを隠さなかったばかりか原告らの生活費や学費を全部支弁し、進んで最高の教育を受けさせるように激励し、面会しては父としての慈愛の情を示し、他方原告らも太郎を父と呼び、事ある毎にはその庇護を求めて太郎の死亡に及んだのであって、原告らも太郎が原告らを認知できない事情を諒察してむしろそのような境遇にある太郎の立場に同情していたものと認められる。
このように、生前すでに父子としての交流をし、相当の庇護をうけて認知も求めようとしなかった原告が太郎の死後三年を経過する直前に及んで認知請求をすることは、見方によっては故人をあざむく所為とのそしりは免れないであろう。
しかしながら、子の認知請求権は身分上の権利として、これを放棄させることは許されないと解されているところであり、この点に関しては父の生存中であると死亡後であるとにおいて差異を設くべき理由がない。したがって、父の死亡後において子が認知請求権を行使することも、特段の事情がない限り権利の濫用にあたらないというべきである。
本件において、被告補助参加人は、原告が原告補助参加人の反対を押しきって本訴を提起したという事情や故人の名誉を失墜させかつ太郎の遺家族の社会的地位や生活の平安を乱すという事情を主張し、弁論の全趣旨からそのような事情も推察されないではないが、しかしそれらをもって右の特段の事情に該るほどのものとは認めることができず、またこれらの事情に前記認定のような事情を彼此勘案しても、なお原告の本訴請求をもって権利の濫用とすることはできないというべきである。
よって、この点についての被告補助参加人の主張は採用しない。
四、被告補助参加人は、また、原告はその主張の戸籍上の関係のもとに、出生以来平安な生活を送り家庭を築いているし、その間には認知請求権を放棄したこともあって、本訴提起の利益ないし必要性がないと主張するが、前項判示と同一の理由により採用に値しない。
五、なお、原告と原告補助参加人とは双生子ではあるが、認知請求は各別にすべきこと特に論ずるまでもなく、したがって、補助参加をしたにすぎない原告補助参加人については本判決をもって認知を許容することができないのはいうまでもないところである。
第三、以上の次第であるから、原告の本訴請求を正当として認容し、訴訟費用の負担につき人事訴訟手続法第三二条、第一七条、民事訴訟法第九四条、第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 西山俊彦)